可愛らしい小物が並べられた部屋で、
 佐祐理は胸に手を当てながら、深く息を吐いた。
 祐一と舞、それに佐祐理の三人で同棲を始め、はや半年。
 祐一と暮らしを共にすることで、
 凍り付いていた舞の心は徐々に解け始め、近頃は笑顔もこぼすようになった。
 和らいでゆく舞の表情は、佐祐理の心を幸福で満たした。
 祐一には感謝の言葉もない。
 ささやかな事で喜び、つまらない事で笑う日々は永遠に続くかと思われた。
 しかし今、佐祐理の中で、
 掴みどころのない何かが、泉のように湧き出していた。
 それを形容する言葉を、佐祐理は知らない。
 いや、口にしたことが無いと言うべきか。

 佐祐理は、壁に掛けられた時計を見上げる。
 午後6時半。
 祐一と舞がデートに出かけてから、まだ30分も経っていない。
 時の流れが、やけに遅く感じられる。
 二人が楽しそうに言葉を交わす姿を想像するたびに、
 胸が締め付けられる。
 形の定まらない感情の塊は、抑えることが出来ないほど肥大化していた。
 佐祐理もそのことを自覚している。
 そして、その想いが誰に向けられ、
 誰を傷つけるものであるかも、おぼろげながら分かり始めていた。
 ただ、今の佐祐理には、それを許容するだけの勇気がない。
 佐祐理は両膝を抱え込むように背を丸めると、
 誰に聞かせるでもなく嗚咽を漏らした。

「ただいま」
 静寂に満たされていた部屋を、祐一の明るい声が塗りつぶした。
「佐祐理さん、お土産買ってきたぜ」
 ドア越しに声をかけるが、返事はない。
「お〜い、佐祐理さん」
「・・・一人にしてくれませんか」
 間をおいて、佐祐理の細々とした声が聴こえた。
 要領を得ない返答に祐一が戸惑っていると、
 ドレスアップした舞が歩み寄ってくる。
「・・・どうした?」
「俺にもよく分からないんだけど、一人にしてくれって・・・」
 祐一と舞は、薄いドアを挟んで佐祐理を問い詰めようとしたが、
 やはり納得のゆく言葉を聞くことは出来なかった。

 佐祐理が部屋に篭ってから3日。
 入浴の為に出て来ることはあっても、二人と言葉を交わすことはなかった。
 食事も取っていない。
 その夜、舞は買い物に出かけていた。
 カーテンの隙間からその姿をうかがっていた佐祐理は、
 祐一が掃除をしているキッチンに姿を現した。
「祐一さん・・・」
「佐祐理さん・・・」
 三日ぶりに聞いた佐祐理の声に、祐一は安堵の表情をあらわにした。
 いろいろと話を聞きたいところだが、
 やつれきった彼女を目の当たりにし、まずは食事を取らせるべきだと考えた。
「何がいい? 舞が買い物に行ってるから、インスタントぐらいしかないけど」
 佐祐理は祐一の問いには答えず、代わりにゆっくりと唇を刻んだ。
「祐一さん、聞いてください・・・」
「どうしたんだい、あらたまっちゃって」
 佐祐理はこぶしを握ると、
『舞、ごめんなさい』
 心の中で呟いた。
 胸を焦がす想いには逆らえない。
 伏せ気味だった視線を水平に戻すと、佐祐理は祐一の瞳を見据えた。

「佐祐理は、祐一さんのことが好きです」
 突然の告白に意図が飲み込めない祐一だが、
 幾度か瞬きする間をおいて、
「俺だって佐祐理さんのことが好きさ」
 いつものボケだろうと軽く流した。
 そんな祐一の表情を強張らせたのは、佐祐理の、暗い炎が揺らめく瞳だった。
「祐一さんを愛してます。誰よりも」
 それは、ありったけの想いを込めた、佐祐理が始めて口にする愛の告白。
「佐祐理さん・・・」
 冗談でないことが分かった祐一だが、
 突然の独白に戸惑い、視線を宙に泳がせる。
「佐祐理じゃダメですか?」
「ダメとかそういうんじゃなくて・・・」
 佐祐理の想いには答えられない。
 それが、祐一が即座に弾き出した答えだった。
 しかし、返すべき言葉が見つからない。
 なんとか搾り出した言葉は、ありふれているが、
 それでいて佐祐理を打ちのめすには十分なものであった。
「ごめん、俺、やっぱり舞のことが好きだから、
 佐祐理さんを受け止めることは出来ない・・・」

 佐祐理の視界が、白く瞬いた。
 全身から力が抜けて、現実感が失われてゆく。
 かき乱された思考と想いが胸を引き裂く。
 キッチンを満たす、悲しみの色に染め上げられた沈黙に耐えかね、
 料理でもしようと佐祐理に背を向けると、祐一の背中から熱い雫が滴った。
 祐一は声もなく倒れ、キッチンには赤い染みが広がってゆく。
 佐祐理は、鮮血に染まったナイフを手に、振るえおののいている。
 返り血を浴びたその顔は、恐怖で歪み、精気が失われている。
 佐祐理は、声無き悲鳴をあげ、夜の街に消えていった・・・。

 声と涙を枯らすことになろうとは、
 買い物袋を手に下げながら帰途を行く舞には想像できたはずがない。
 舞は涙を零しながら泣き叫ぶが、祐一がそのまぶたを開くことはなかった。
 警察は佐祐理の犯行と断定し、
 全国に指名手配するとともに、各地に検問を設け、行方を追っている。
 佐祐理はキッチンを飛び出した後、
 あてもなく歩き、夜が明ける頃には県境を超えていた。
 事件を報じた新聞やニュースを何度か目にしたが、何かを考える余裕などない。
 気がつくと佐祐理は、日本列島を縦断する山脈のふもとに立っていた。
 佐祐理はある決意を胸に秘め、山に脚を踏み入れた。

 聞き込みを続けた結果、
 佐祐理とよく似た女が山に向かったことを掴んだ警察は、
 パトカーを何台か急行させた。
 その内の一台に、舞の姿がある。
 もしもの時、佐祐理を説得したいと、舞自らが申し出たのだ。
 何かの間違いであって欲しいという期待はない。
 ここ数日の佐祐理の様子を考えたうえでのことだ。

 山に入ってから半日ほど経っただろうか。
 日はすでに落ち、周囲を照らす光など一筋も見当たらない。
 入り組むようにそびえる大樹からは、
 動物たちが獲物を狙う目で佐祐理を見つめている。
 ひたすら奥に向かって進むと、急に視界が開けた。
 眼下は、断崖絶壁と呼ぶに相応しい崖で、底には清らかな水が流れている。
 両手を広げ、深く息を吐き、自然のざわめきに耳を澄ますと、
 清流が岩を削る音と動物の鳴き声に混じって、人の声が聞こえてきた。
 振り返ると、円錐状の光が佐祐理を捉えた。
 5人ほどの警官が、ハンドライトを向けているのだ。
「倉田佐祐理だな、殺人の容疑で逮捕する」
 佐祐理は無言のまま、警官の列を左から右へ視線を移す。
 抵抗を警戒してか、何人かが拳銃を構えている。
 佐祐理は、逃亡の意志も抵抗の意思も示さない。
 列の中央に位置する警官が、手錠をかけようと歩み寄る。
 しかし、その歩みを遮ったのは舞の叫びだった。
「待って!」
 遅れてやって来た舞は、激しく息をつきながら、警官と佐祐理の間に入った。

「舞・・・」
 三日間の逃亡生活で疲れきった佐祐理は、虚ろな言葉と瞳を返した。
 言いたい事は沢山ある。
 しかし、二人とも考えがまとまっておらず、なかなか言葉が出ない。
 先に口を開いたのは佐祐理だった。
「ごめんね、舞、こんなことになっちゃって・・・」
 許してと言えるはずはないし、言ったとしても許されるはずがない。
 謝罪の言葉を並べるしかなかった。
 舞はなんと答えたらいいのか分からず、口を閉ざしたままでいる。
 次に言葉を発したのは、やはり佐祐理だった。
「悔しかった・・・祐一さんと仲良くする舞を見るたびに胸が苦しくなって・・・でもどうしよもなくて・・・気がついたら・・・」
 乾いた声が、涙混じりのそれに代わってゆく。
 とめどめもなく溢れる涙が、ハンドライトの光を照り返し、七色の輝きを放っている。
「ごめん、舞・・・」
 それが、佐祐理の発した最後の言葉だった。
 佐祐理は後ずさると、舞が手を伸ばすよりも早く、崖に身を投げ出した。
 幾瞬かの静寂の後、硬いものが潰れる音が、風の乗って崖を這い登って来た。
「佐祐理・・・」
 舞の瞳からこぼれた涙が広げる染みは、佐祐理のそれに重なり、
 二人の思い出を溶かし込んでいった・・・。

 ――――――――完――――――――



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